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これからのユニバーサル・デザイン

これからの駅の在り方を考えてみた。

誰でも乗れる駅があればいい。
ホームドアの設置と列車とホームの段差が解消されれば、誰でも乗れる。
こういうシステムをやってもらいたい。

駅の人に乗せてもらうんじゃなくて、自分と介助者で自由に乗れればいい。
手押しでも危なくないようなものにしたい。

目の見えない人も一人で乗れるような駅・設備をつくってほしい。
酔っ払いや子供も安心して乗れるものがいい。

あと、自由に降りれるようにしてほしい。
今は、トイレに行きたくなっても、駅員に伝えた駅まで我慢しなければならない。
そんなのおかしいでしょう。みんなトイレに行きたければ、途中で降りてトイレに駆け込んでいる。
私もトイレに駆け込みたい!

そんなことが、これからの駅の在り方だと思う。これからのユニバーサル・デザインだ!

脳性まひ者はエリートか?!

先日、大阪の友だちと飲む機会があった。

この友だちが「養護学校のなかでは、脳性まひの人はエリートなんだよね…」と話していた。そうなのかなあ、と正直私は思った。

私の友人の脳性マヒ者は、とても努力家で、いろんなことをていねいに、と心がけている人だ。言葉の意味だってよくわかっている。
 
昔、私はある養護学校に勤めている先生と知り合い、この先生にハッキリいわれたことがある。「キミはもうちょっとていねいに言葉を使わなくてはいけない、でないとこれからの発展につながらないよ」と。この先生の一言を聞き、私は自分と闘おうと思った。

そして事実、闘ってきたつもりだ。このことは、私の誇り、他人と争って勝ち負けを競うのでははもうやめた。弱い人を助け、自分と闘わなきゃ、私は今度生まれなおしたとしても、また脳性マヒ者としていきたいと考えている。

 私が尊敬する人は、魅力的な人ばかりで、わがままで、いい加減で、面白い人たちだった。これまでに7人いた。そのうちの4人はもう亡くなってしまったが、その4人はみな脳性マヒ者だった。4人とも私と同じことを言っていた。

本当のバリアフリー

 近頃、「バリアフリー」をうたったところにいった。その場所は20年前からある。いいところで、いろんな人との出会いがある場所だ。私も、現在まで付き合いのある素晴らしい人たちと出会った。

 けれども、経営者が疲れてきたのか、10年前くらいから、あまり「バリアフリー」を強くは意識しなくなった。そのころから店が狭くなった。入り口には、多くの物が置かれ、車椅子が入りづらくなった。トイレもいろんな物がおかれて私の電動車いすでは入れなくなった(その前は入れたんだけど)。

 アルバイトも前は意欲的な人がいた。その人は今も大田区で福祉に携わり、いろんな活躍をしている。私はその人と今も付き合っている。その人は小さなイベントをコツコツとやっているけど、車いすの人たちがいっぱい来て、とても面白い企画をやっている。だが、その人もちょうど10年前にやめてしまったようだ。そのためしばらく行かなくなった。

 ここ一年、いろんなイベントがあったので、そこにまた行き始めた。そしたらやはり「バリアフリー」の意識は低下していた。入り口にいろんなものを置いているので狭いから、私の車椅子がぶつからないかどうかばかり、心配していた。

 私が自分で運転しているのに、介助者に「後ろから行った方がいいんじゃないですかね」と言っていた。「自分でやるんで前から行きます」と返事したけど、あまり聞いてくれないようで、何度も後ろから行った方がいいんじゃないか」と言っていた。まあ、気にせず私は前から出たけど。

 本当のバリアフリーを実現するには、まず、「心のバリアフリー」が必要だ。

ずっと考えていること

 一般に、「できる人」と「できない人」を分けて、「できる人」だけで何かをやっていこうとすることが多い。

 ずっと考えているのは、この分け方を何とか超えていけないだろうかということだ。世の中には、頭がいい人もいれば、悪い人もいる。言葉がうまくしゃべれる人もいれば、うまくしゃべれない人もいる。本来は、ひとぞれぞれ個性があり、多様であり、序列自体はないはずだ。

 けれども、この分け方は、とても強くて、この序列に反対しているはずの運動の中でも、よく幅を利かせている。

 そのせいで悔しい思いもしてきたし、他の人がそうされているのを見て嫌な思いもしてきた。社会モデルを口で言いながら、自分たちのなかでいばったりして、序列を持ち込んでいる。

 もちろん、彼らなりにいいぶんはあるはずだ。人はそれぞれ平等なんだけど、「これ」をやるには、この人じゃだめだ、ととかなる。

 本人は一生懸命に努力してやっているけど、認めてもらえない場合が多い。
 その人の努力をなんとか認めることはできないだろうか?
 ずっと考えているんだけど、少なくても序列をなくしたいという思いだけがある。
 

武器としての障害者差別解消法について

 昨年4月、障害者差別解消法が施行された。私は全く評価していなかった。
というのも、それが施行されることで、本当に「ともに生きる社会」が実現されるとは到底思われなかったからだ。
 実際、骨格提言はいまだに実現されていないし、さらに夏には津久井やまゆり園事件があり、全く信用できないと思った。

 でも、私の先輩がファイスブックで、障害者差別解消法についてこういっていたのを見て少し見方が変わった。
 彼は「この法律は私達障害者自身が守り、育て、活用しなければ、何もかわりません。
 この法律は国や社会が私達に支援を提供する法律ではなく、
 私達が障害者差別を告発する為の武器として活用するものだからです」。

 その通りだと思う。
 障害者差別解消法によって「共に生きる社会」が実現するのではなく、
 それを実現するためのスタート地点を実現したのだ。

 私には言語障害があり、聞き取りづらい時がある。
 だから私も諦めてしまって外出するときに介助者に任せてしまった時がある。
 そうしたら介助者から「通じなくてもいいから自分の言葉で話した方がいいんじゃないか」と言われた。

 私ははっとした。通じないからと諦めんじゃなくて、あくまでも私は相手にちゃんと自分の言葉で伝えるべきなのだ。
 実際、そのようなことを繰り返せば、徐々に、伝わるようになってくる。
 最初はあまり聞き取ってくれなかった駅員も、その努力を重ねていくうちに、
 こちらから、何も言わなくても「こんにちは」と挨拶の声をかけてくれるようになった。

 それが「共に生きる」ってことだと思った。あきらめることでは何も変わらない。

 揉めたとしても、こちらの主張を伝え続けなければ行けないと思う。
 一見言うことを聞いてくれる支援者は心地いい。
 でも、それは、結局のところ、私の言うことには耳を貸していないのだ。
 支援者は助けてくれるけど、私の武器ではない。もめなければならないのだ。

 このように考えて、私は障害者差別解消法を、出発点として、武器として評価することにした。
プロフィール

鈴木敬治

Author:鈴木敬治
ただの障害者です。たまたま変わったところがありますが、当り前な生き方をしています。
野球はヤクルト、音楽は吉田拓郎をこよなく愛しています。
フォークソングが大好きで色々な人の歌を聴きます。

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