FC2ブログ

名前と歴史

昨日1月8日、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」事件の初公判があった。
被害者の名前はまだ全員は公開されていない。
それはおかしい! 名前はその人の歴史だと思う。
だから名前は大切に扱うべきだと思う。

私は昔からそう思っていた。
この事件とは直接関係ないが、私がそう思った出来事をちょっと書きたいと思う。

私はその頃、作業所に通っていた。作業所の職員がなぜか威張りはじめて、
自分のことを「先生」と呼べ言い、また私のことを「敬治ちゃん」と呼び始めた。

私は当時31歳でどうやっても子供には見えなかったはずだ。
それなのに、職員は私の名前をちゃんと一人の人間に対するようには扱わなかった。

私は「カチン」と来て、考えた。
名前はその人の歴史であり、重みをもつ。
それを大事に扱わないということは、
その人をちゃんと扱わないってことだと思った。

もちろん親しみを込めてあだ名で呼ぶ場合はあると思う。
でも、それは、いつでも通用するもんじゃない。
普段はきちんと呼ぶべきだと思う。

作業所、施設、養護学校ではこういうことが頻繁に起こっている。
別のことと見えたとしてても、奥ではこういうことが事件につながっていくと思う。

「社会が悪い」の一言で済ますんじゃなくて、
目の前のことにきちんと注意を払いながら、やんなかったら、何も変わらないと思う。
スポンサーサイト



不思議な縁

この前、沖縄の友人から聞かれた。

「あの人(共通の知人)とはどうして知り合ったの?」、と。

思えば、高校二年の時、ちょうど18の頃、ぼくは、駅で酔っ払いと間違われ、交番に連れていかれたことがある。とても悔しかった。その思いを新聞に投稿した。


ちょうど僕の学校で後輩のボランティアをしていた人が、この記事を読んでくれた。それで、ぼくに声をかけてきた。この人は僕の家の近くの人であることがわかった。それもあって仲良くなっていった。


 彼は学校外のいろんな人を紹介してくれた。そのことで僕の世界はぐんと大きく変わった。彼はとくに僕の仲間になるようにと、障害を持って活躍している人たちを紹介してくれた。僕は僕で、彼に支援者としてやっている健常者をいっぱい紹介した。

 彼は、自然を大事にする人だった。インドのガンジーの言葉を座右の銘としていた。彼はすでに亡くなったけれど、彼が千葉で取り組んだ仕事は今も続いている。奥さんが彼の遺志を継いで農家をやっている。

 僕はその生きざまはとてもいいと思った。このまえ、たまたま、奥さんの仕事がテレビで取り上げられていた。とてもよかった。

 不思議な縁に感じるんだけど、僕が彼に紹介した人と、彼が僕に紹介してくれた人は、いまは、それぞれ直接つながって仲間になっている。昨日もそのイベントに参加してきた。また、このことを思い出させた沖縄の友人は、彼の農地の近くで坊さんをやっていた。なんか不思議な感じだ。

早く行ったのに遅くなっちゃったよ

関西のバリアフリー

 このあいだ、ある会議のため京王線・分倍河原経由でJR線・谷保まで向かった。分倍河原に着いたのが13時ちょっと過ぎ。13時15分の電車に乗れるな、と思っていたら、駅員に「次の24分でお願いします」といわれちゃった。けっきょく、15分以上待たされた。おかしいよ! しかも、こう「お願い」してきた駅員は京王の職員、スロープ板をもってきたのもそう。JRは何やってるの!? 
(ちなみに、JRで川崎経由で谷保まで向かうと、川崎で20分ぐらい待たされることがある!)
 同じJRでも、東日本と西日本とでどうして対応がちがうのか? 西日本なら、すぐ電車に乗せてくれるよ。それがサービスだよ。
 関西の地下鉄は、ホームをかさ上げし、電車とのすき間にゴムを入れて車いすでも自力で乗り降りできるようにしている。もう9年も前からだ。この9年間、とくに事故が起きたなんて聞いていない。とても安全だ。自分で当たり前にきっぷを買えば、どこにでも行けるよ。「関西の地下鉄は大阪万博に合わせよりバリアフリー化をすすめる」と以前、駅員が話していた。
 ところで、東急は、社内の「お知らせ」でなかなかのことを書いていた。バリアフリーを促進しますって。でも、駅員に聞いてみたら…。「視覚障害者のためのサービスを充実させる」って。これはよいことだけど、じゃあ車いすの障害者のことはどうなるの?
 最後に。JRみたいに、行き先をいちいちマイクで放送してたらうるさいし、イライラするし、あぶないでしょう。飯田橋では、マイク放送じゃなく無線でやりとりしていた。ぼくも横で聞いていた。びっくりしたよ。やれるところからやればできるんだよ。ホームドアの設置はもちろん、関西の地下鉄のようにホームのかさ上げ、電車とのすき間の解消をちゃんとやれば、車いすでも安全に乗り降りできるんだけどな。

私にとってのスキー

 
昔に書いた文章だけど、ブログに載せてみる。
 ベッドの上に自分のスキー写真と共に飾っていたが忘れていた。
 介助の人に指摘されて思い出した。
 こんな感じだ。


「私には、重度の障害がある。
私は、とにかく、スポーツが苦手だった。
私も、スポーツの経験はあったが、ほとんどできなくて、諦めていた。
それが、あるきっかけで、スキーをするようになった。
今から27年前、私は先輩から「スキーに行かないか?」と言われ、本当は乗り気じゃなかったのだが、行くことに決めた。
だが、それは遊びのスキーなどではなく、障害者のスキー大会で、私はなんと、その大会に出る羽目になってしまった。
出たのはいいが、散々な成績で、惨めな思いをしたのを覚えている。
そのときの惨めな目にあったことが、のちに、スキーに飲めるこむきっかけとなった。
それからの私は、自分用にスキー板を改造し、アウトリガーも直した。
その後、一生懸命練習して、自由にすべれるようになった。
最初は、「私にはスキーなんか無理だ」と言っていた人もいたが、私の上達を目の前にして、驚いていたのが印象的だった。
のちにカナダに行き、そこですべったこともある。
今は障害が重くなり、スキーは出来なくなったが、その時の経験が、自分の自立生活、特に大田区のバリアフリー問題を考えるときには、大いに役立っている」。

私にとってのスキー

出会いの面白さ

僕が高校二年生の頃、スクールバスで学校に通っていた。
学校に着いたら、テレビが点いていて、宮城県の東北大学のことがやっていた。その内容は、学校に障害者用エレベーターを付けたという事だった。

そうこうするうちにそのことは忘れていた。
二十年ぐらい過ぎて、友達に誘われて旅行に行った。
その時にあった人から、「僕の知り合いに大田区に知り合いがいない人がいるので紹介するよ」と
紹介してもらった人がいる。

その時は僕は社会教育に関わっていたので、
その講座の講師としてその人を社会教育の方に紹介した(混乱しないようにSさんとしよう)。
その内容は僕にとっても、とてもよかった。

その後、Sさんから、「就学時健康診断」の話し合いに行かないかと誘われた。
Sさんとの付き合いは、それから続き、今は地域のイベントで一緒にやっている。

それから、またまた二十年がたち、僕は「バリアフリー障害当事者リーダー研修」というものに参加した、その時、バリアフリーの歴史を学んでいたら、Sさんが東北大学で頑張ったからエレベータがついたのだということを知った。

それで驚いてSさんに話してみたら「そんなこと忘れていた(笑)」と笑っていた。おもしろい出会いだなと思う。
プロフィール

鈴木敬治

Author:鈴木敬治
ただの障害者です。たまたま変わったところがありますが、当り前な生き方をしています。
野球はヤクルト、音楽は吉田拓郎をこよなく愛しています。
フォークソングが大好きで色々な人の歌を聴きます。

リンク
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR